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★4 キリスト教と日本人

 日本人がキリスト教と出会う歴史を様々な資料を用いて紐解き、そして現代になんと1%以下となってしまったキリスト教への問いを残して終わる新書。

キンドル版で買ったのですが、思ったよりもボリュームもあり、読みがいがありました。

そして相変わらずキリスト教のことしか書いてませんのであしからず。だってキリスト教の本なんだもん(言い訳)

キリスト教と日本人 (ちくま新書)

キリスト教と日本人 (ちくま新書)

 

 日本におけるキリスト教宣教のメインとして一般の方が思い起こすのはおそらく信長時代~禁教時代ではないでしょうか。以前読んだ本でもその禁教時代をピックアップして書いているものもありましたが、本書はそれのみならず、解禁となってからも、戦後になっても、なぜかクリスマスなどの文化は根付くのに来日する宣教師の数ほど増えないキリスト教の不思議を述べています。

wakemeup.hateblo.jp

 

さてはて。キリスト教というものはまず置いといて。宣教というものはたいていの場合何かとトレードの場合が多いと読んでいて思いました。それは戦国時代であれば武器や知恵であったり、解禁後であれば貧困からの救済を積極的に受けた(施し)であったり、現代であれば死への恐怖だったり(がん哲学カフェとか)若い人たちの居場所としての存在だったり…。それでも宣教に来てくれている人は、それらがキャッチーなもので目を引くからやっているわけであって、本当は心から神の家族として兄弟姉妹として迎えたいのだなぁと、本書のニコライ堂で有名な正教会のニコライの部分を読んでいて思いました。

ニコライはサンクトペテルブルグから当時鉄道もなかったため馬車に乗って東の果てまで来て海を渡ったそうです。30歳以下で来日、亡くなるまでロシアには帰らなかったそうです。まさに、すべてをかなぐりすてて日本のために生きた人でした。宣教だけのために来日していたのなら、あまりの根付かなさにとっととあきらめてロシア東部で信仰を広めたほうがずっと楽だしマシです。

そう、日本は沼地と言われています。遠藤周作の沈黙でもよく抜粋される言葉です。沼地に種を植えてもいい芽は出ない。これはイエスの語られた言葉から着想を得ているものですが。

"「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、
日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」"
マルコの福音書 4章 3〜8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

現代でも東アジアは宣教のメインとなっており、特に中国は爆発的に増えています。逆境の中にいるからかもしれませんが。だから宣教も日本でするより中国のほうが迫害もあるかもしれませんがずっと「穂を刈り取る」にはもってこいなのです。

それでもなおニコライの時代から現代にかけて宣教師が来るということは、私たち日本人は永遠に見捨てられていないし、沼地であっても種をまき続けるのは、ひたすらに愛しているからなのだと感じました。

私自身、オーストラリアからの宣教師によって導かれました。例にもれず英語力とのトレードです。そのつてで世界各国のクリスチャンの友人を訪ねて回りました。誰もがホスピタリティ溢れた招待をしてくれました。外国人だからではなく、友達だから、でもなく、神の家族において私たちは兄弟姉妹だから、と。私はこのイエスを長兄とした神の家族という言葉に感銘を受けて、受洗にいたりました。

 

さて、クリスチャンの数が増えれば安心なのでしょうか?それはまた違うと思います。それならカトリックの家族がたくさん子どもを産んでよくわからないうちに幼児洗礼を施して数だけ増やしてもいいわけです。そうでなく、聖書には「行って、世界中に弟子を増やしなさい」と書いてあります。

"イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」"
マタイの福音書 28章 18〜20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私たちは、教えを聞いて満足するだけでなく、教えを実践するものでなければならないのです。

 

さて、宣教は今度は置いておいて。

今回読んだ本も、イエスの語られたことは「教」でなく「道」であるとも述べらています。このくだり、面白いなと思いました。

現在、日本でも下を見れば様々な問題は山積しています。特に子供の格差や貧困にはいつも心を痛めています。世界中とは言わずとも、マザーテレサも言ったように自国にも問題はあります。クリスチャンはキリストに倣って、キリストという道(ヨハネ14-6)を通って、この世の光(マタイ5-14)としてノンクリスチャンとも分け隔てなく問題を解決しあえる存在であってほしい、そして私もそうありたいと祈ります。