いろいろなことに挑戦する記録

二児のワーママ、人生を合理的に進める記録

【書評】★3 潜伏キリシタンは何を信じていたのか

私はクリスチャン、夫は長崎がルーツ。そして最近「迫害されるクリスチャン」に触れることが多かった。それらの点がすべて線として潜伏キリシタンにつながったのは言うまでもない。折しも長崎で潜伏キリシタンの遺跡が世界遺産へと登録されたこともあり、本書を読むこととした。

 

潜伏キリシタンは何を信じていたのか

潜伏キリシタンは何を信じていたのか

 

 

 さて本書の構成は、日本にキリスト教が来た経緯から、九州を中心にどれほどまでに拡大したのか、また禁教令からカクレとなり、解禁令が出されるまでのその間どのように信仰は変化していったのか。そして現在の状況、今後の(カトリックの)日本における拡散を描いている。

 ちなみに本書、賛否両論でアマゾンレビューではボコボコにたたかれている。うらみでもあるのかと思うほどである。しかし私たちは本当にカクレキリシタンのことを知っていたのだろうか?むしろ、筆者が終始一貫言うように、ロマンのベールに隠して人が殉教することへの美徳の甘美に浸っているだけではなかろうか?本当のことを知らねば、長崎の世界遺産群は見て回れない気がした。

 

 私がこの本を読んでなるほどな、と思った部分は以下である。

 少人数の日本語もままならないような宣教師が来たところで、何万もの人間が仏閣を捨ててキリストに帰るのだろうか?筆者の答えはノーである。

 自分自身も洗礼を受けたが、正直まだ聖書の知らないところばかりである。だから毎週教会に通い、神の言葉をまとめた聖書を学ぶ。紙の聖書すらなかった時代でましてやすぐに追い返されてしまった宣教師なしに、教養に浅い一般の農民がキリスト教理を深められるだろうか。そう、何万もの人間が信じた、と日本史の授業でも出てきたので私もそう思っていたが、実際には領主が洗礼を受けたから下々のものもよくわからないけれどもいいことがあるなら信じてみようかな、の軽いノリで洗礼を受けていたと推測されるそうだ。

 この点においてはあまり資料がないため推測される部分も多いが、私はなるほど、と感じた。

 禁教時代の250年余り、隠れるがあまり独自発展してしまったカクレキリシタンに同情を禁じ得ない。今でいう教父や牧師などの指導する者もおらず、主にポルトガル語ラテン語のまま覚えさせられた祈りは長崎の訛りに負けてほぼ呪文となって、日本人のベースとなっている先祖信仰にとらわれてしまった、もはやキリスト教とすら言えるのかわからないものとなってしまったのだから。

 また現代においてフィールドワークを重ねる筆者の記述でもあるように、船を新調したから神父にきてもらって神道的な「魂入れ」をしてもらうなど、長崎のカトリックでは神道キリスト教がまじりあっているという。関東圏ではあまり聞かない話なので、田舎ならではの姿を本書から垣間見ることができる。

 本書は学術書として読むにはやや一次資料に欠けるものの、私が好きなテレビ番組「古代の宇宙人」をみるよりはずっとエキサイティングなものである。これから長崎に行こうとしている方にはアマゾンのレビューと合わせてお読みいただきたい。

 

 やはり日本人は、八百万の神々信仰が根強いのだろう。現代人の心の闇も深いが、救ってくれるならアブラハム・イサク・ヤコブの神だろうが仏だろうが天皇だろうが教祖様であろうが行政であろうが誰でもいいのである。それは初めの宣教時期から現代にいたるまでである。

 カクレキリシタンは今後ひっそりと高齢化に伴いなくなっていくであろう。キリスト教も?筆者が言うように新規性や舶来品でなくなってしまった今では、新規に信徒が増えることもなかなか難しいだろう。当教会も宣教には苦労をしている様子である。先に述べたように、日本人はキリストでさえ八百万の神々の一柱と考えているからなかなか一神教を根付かせることは難しい。でもワンストップで全部の祈りをかなえてくれるから、八百万よりずっと楽だと思うんだけどね。