30年近く生きてきて、生きることについていくつか学んだことがある。そのうちの一つは「食習慣が多少悪くてもなかなか死なないが、精神衛生習慣が悪いと割と早く死ぬ」である。
病院外来勤務の私だが、なかなか定期受診に来ないな、どうしたのかな、と思っていた患者のカルテを開く。すると享年〇〇歳と表示され、既に亡くなっていたことが分かった。若い人から中年の自殺が増えているというが、心を病むと人はパワーを持って死にゆくのだ。
そんなことから、私はせめて子供の精神衛生には上手にかかわっていきたいと決意した。
人の心を育てるには、乳児からの愛着(アタッチメント)が重要とされている。つまり、泣けば誰かが来てくれる安心感、庇護されている場所。帰る場所ーーそれがあるからこそ人は外へと向かっていけるというのが成長の流れである。
メンタル面で困っている患者の生い立ちの話から聞くと、子供の頃から家族の中で何らかの支障を持っていた人も少なくない。昔はあまり見えなかっただけで、虐待やネグレクトなどはあったのだろう。そして、大人になってまた歴史が繰り返されたり、あるいは普通の人のフリをして苦しんでいたり、また人との信頼関係を正しく取れないと悩む。
体の成長は大体人間同じである。栄養と運動などにより骨が伸び、筋肉がつき、脳が重くなり、発達していく。成長の指標もあり数値で表せられる。しかし心の成長は、それこそ十人十色だ。正解が何なのか、誰も決められない。
さてはて。わが子のメンタルは自ら育つ手助けをしたい。子供から発せられる愛着行動をめんどくさがらずに受け入れてあげたい。
しかしいつも思う。
人が子供の親になっただけで聖人のように愛をもって子供をはぐくむことができればいいのに。
だが実際はそうではない。自分自身もそうであったが、それまでひとりの大人としてお金もあるし時間もある。つまりやりたい放題やってきた。それなのに急に他者、しかも自分がいないと死んでしまうような小さな存在が来てしまえば、「私」としての人生が見えなくなる。休む時間や場所さえなければ、単なる子育てマシーンだ。
私の人生だったのに、急に扱い方すらわからないものが生まれて泣きわめけば、大人のメンタルもやられる。虐待する気持ちもわかると、いつもギリギリのところで綱を渡ってきた。ーーああ、そんな困難な中でも「私」を捨てて人を愛せればいいのに。
そんな経験があるからこそ、児童相談所が多忙になるほどネグレクト案件が増えてくるのもわかる。皆、ビルの屋上と屋上をつなぐ鉄骨を必死になってわたっているのだ。
この本ではキリスト教系児童養護施設を舞台としたノンフィクションドキュメンタリーをノベライズ化したものである。ドキュメンタリーのほうは視聴していないが、私の予想である「児童養護施設の職員はきっと怒りもしないし後悔もしない聖人なんだろう」というのはどうやら外れたようだ。
もちろん本を読む限りスタッフの皆様は私なんかよりずっとよくできた人間で、子供のことを心から迎え入れているようで、電車の中で読みながら思わず涙してしまったほどだ。一方で思春期や進学、就職にあたっての衝突に悩んだり、正解は何かとまだ模索していると書かれていた。この世の中には、完全なものはいないが、完全に近い人がいる。
私も、良い隣る人になれるだろうか。
今は親5年目になってようやく子供の存在にも慣れてきた。子供からの理不尽な要求にも慣れてきた。どのように接するかも学んで実践してきた。少なくとも、毎日愛してると心から言おうと努力している。(それって努力なのかどうかは別として)
そんな今だからこそ、やっと子供の隣人になれるのではないかという期待をしている。
どんな子育ても正解はないのだろう。ただ、隣にいて、受容する人が一人でも多くいたら。
そんな思いもあり、私は次の春から保育園で働く。
最後に、 非常に感銘を受けた言葉を引用しておく。
「私達は、親よりももっと偉大なものに望まれて生まれてきた」
アーメン