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★4 あなたにもできるあかし(2019/02/10

(がっつりクリスチャン向け記事)

 

クリスチャンには、証(あかし)というものがある。それは、自分はイエス・キリストにおいてこのように変えられたのだ!というのを人の前で話すことである。
 証をする機会というのは、実は滅多にない。実際私が証をしたのは洗礼を受けるときと、転会(教会の籍を別の教会に引っ越しすること)をするときくらいであった。おそらく、証をすることを信念としている教派以外のクリスチャンの方々は、似たような状況だろう。宣教師になれば証をする機会がたくさんあるかもしれない。

 この本を読むと、証とは洗礼を受けるためにだとか特別機会におけるものではなく、自分が誰を信じているのかを自分の口で日常の中で他者に表現することであると筆者は著書の中で綴っている。

 

新装版 あなたにもできるあかし (いのちのことば社)

新装版 あなたにもできるあかし (いのちのことば社)

 


 さて、ご存知の通り我が国・日本ではクリスチャン人口は1%程度であり、一般社会で影を潜めて生きているようだ。
 なにせ世界的には三大宗教の1つだが日本ではマイナー宗教であるから、今生きている集団から嫌われることを恐れている傾向がある。社会で生きていくには野球、宗教、政治の話はタブーだと言われた時代もあるくらいの国だから。
 しかし本当は、自然な会話を通して、あるいは意図的な会話も用いて、イエス・キリストの事を証していくことか大切なのだとこの本から学んだ。イエス様は「すごかった人」だから我々は今も信仰しているわけではなく、「今なお存在してそばに生きてくれていて働きかけてくれている」からこそ信じているのだから。
 ふと、先日教会の説教の一部で忘れられない部分を思い出した。主題は「神の御名を小さくしてはいけない」。例を出すと、私達は「トヨタ」と言えば「日本の代表的な車会社で、まあ性能も良く、海外からの評価も高い」とすぐイメージできる。
 では、「クリスチャン」と言われたら?私達を通して神のご計画が実践されるのに、私達がその計画も伝えておかなければ「クリスチャン」や「キリスト教」と言われたときの一般の人が持つイメージが小さくなってしまうという事だ。証はその御名を広めるためのツールとなるというわけだ。


 しかしながら一方で押し付けの証をするというのはだめだ、とこの本では主張している。神の計画は時にかなって美しいため、時には待つことも求められる。いざ!というときがあるわけなのだ。それに相手の反応の程度も確かめなければならない。本書にはいくつかのパターンに応じてどのようにキリストの話をしていくかべきかが書いてあるので、参考にされたい。


 この本は非常に良いことがたくさん書いてあるのだが、いかんせんよくある論理の図であるぐるぐる回っていくアレである。このご時世珍しい本だな、とおもったら、翻訳されて日本に来た初版ですら60年前であった。ああ、なるほど。だから知らない人にいきなり「イエス・キリストをどう思いますか」とか聞けたり文体が古臭く感じたのか。

 そう思うのと同時に、半世紀以上前から証というのは課題を持っている事柄なんだと時代を超えて実感させられた。